フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main)
中世以来、ドイツの中心都市の一つであった. 794年には初めて文献に記録され、中世盛期の帝国自由都市であった. 13世紀のライン都市同盟に参加している.
1806年まで神聖ローマ皇帝の選挙が行われる諸侯会議が開催された地であり、1562年以降は皇帝の戴冠式もこの都市で挙行された. 1816年からドイツ連邦の議会がフランクフルト自由都市で開催され、1848年から49年にかけてはフランクフルト国民議会が開催された. 1866年の普墺戦争により都市国家としての独立を喪失し、プロイセンに併合された. フランクフルトの人口は、1875年に10万人、1928年には50万人を超えた.
現在のフランクフルトは国際金融の中心地であり、国内の工業と商業の中心でもある. ドイツを代表する世界都市の一つに数えられており 、欧州中央銀行、ドイツ連邦銀行、フランクフルト証券取引所、ドイツ銀行、コメルツ銀行、ドイツ復興金融公庫、、(ヘラバ)の本社がある.
工業・産業・交通の要衝でもある. メッセ・フランクフルトは、世界最大の見本市会場の一つである. フランクフルト空港は世界最大級のハブ空港であり、鉄道についてもヨーロッパ最大級のターミナル駅であるフランクフルト中央駅がある. また、道路においてもフランクフルト・ジャンクションはドイツで最も自動車交通量が多いジャンクションの1つである. フランクフルトの は、データ転送量において世界最大のインターネット中継点である.
ドームヒューゲルの入植地の名前は、794年に初めて文献に記録された際、Franconofurd, または Francorum vadus と古高ドイツ語およびラテン語で記述されている. どちらもフランク人の徒渉地を意味する. おそらく、現在のアルテ・ブリュッケのやや上流側の川底に岩があり浅瀬になっていたために、通常の水位の状態であれば、現在よりはかなり川幅があったと思われるマイン川を歩いて渡ることができた. この徒渉地は、ローマ時代になると戦略的意味はなかったが、マインツからゲルマニア領内を通る街道は、マイン川河口域の湿地を迂回してドームヒューゲルを通っていた.
ローマ人が撤退した後、260年頃にドームヒューゲルはアレマン人に占領された. 530年頃フランク人がアレマン人に替わってマイン川下流域の覇権を掌握した. おそらく新しい領主は、この徒渉地を重要な交易路として利用した. このため、交易相手はこの徒渉地を「フランケンフルト」と呼んだ.
年代記作者のは、1014年から1017年に、カール大帝によるこの街の創設に関する現在まで知られている伝説を記述している. それは、ザクセン戦争と関連している.
"「信頼できる人々から聞いたことを今から私が物語ろう. ピピン王の王子カール大帝の治世に、あなたがたの先祖と我々の祖先(ザクセン人)との間で戦争が起こった. この戦いでフランク人は我々の祖先によって打ち負かされた. 彼らが不案内な徒渉地を通ってマイン川を渡らねばならなくなった時、彼らの前を一頭の雌シカが川を渡り、神の温情をもって渡るべき道を示した. 彼らはシカに続いて川を渡り、陽気な気分で安全な岸にたどり着いた. これ以後、この村はフランクフルトと呼ばれるようになった. 」"
- ティートマール・フォン・メルゼブルク
地図 - フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main)
地図
国 - ドイツ
ドイツの国旗 |
欧州大陸における政治的・経済的な主要国であり、歴史上、多くの文化・科学・技術分野における重要な指導国でもある. 人口は約8300万人で、これは欧州連合において最大である. 同国は限定的主権を有する16の州によって構成される. 国土の総面積は35万7386平方キロメートルであり、主に温暖な気候に属する. かつて「西ドイツ」と呼ばれていた時代は「西欧」に分類されていたが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により「中欧」または「中西欧」に分類されるようになっている.